2012/02/25
ネズミの相談 1
26歳頃の出来事。
地元の病院で職員を募集している、という情報を入手し、面接を受け、臨時職員として採用された。
選んだ理由は:
・真面目に勤務していれば将来正職員へ途用のチャンスあり。
・バツイチ女が一人で子育てするには、安定した収入が第一。
仕事内容は、入院患者用食器を洗浄機を使用して洗浄・消毒する、という単純作業の繰り返しで、体力勝負な仕事だった。
しかし、チーム内で一番年齢が若く、元々体格が良く、腕力にも自信ある自分にとっては、作業はそれほど苦痛ではなかった。
汗だくになりながら精一杯働き、お腹も減るのでモリモリご飯を食べ、疲れて、夜はぐっすり良く眠った。
少し職場に慣れてくると「女の職場」の現実が見えてきた。
その場に居ない「特定の人」への文句・愚痴・陰口が日常的に行われていることに気づいた。
私は当惑し、違和感を覚えた。
私には、昔から持論があった。
誰かに文句がある、あるいは改善して欲しい点があるのなら、本人に直に言うべき。
陰で愚痴っても何の解決にもならない。
本人に言わないのであれば、それはその人が「言わないこと」を選択したわけで、選択した以上、いっそ誰にも言うべきでない
というものだ。
小学生の頃から私にはこのような思考が漠然と定着していた。
(もちろん小学生の思考だから、「改善」だの「選択」だのという小難しい言葉は用いない)
だから私は愚痴る人々を見ながら不思議でならなかったし、愚痴が飛び交う中に身を置くことが不本意であり、苦痛であった。
私は、しばらく噂の当人(Tさん)を注意深く観察した。
観察して気づいたが、確かに40代女性のTさんは少しばかり動作がゆっくりだった。
それは、見ようによっては
・わざとゆっくりやっている?
・態度が真剣さに欠ける?
そのようにも見えないこともない、と思えた。
そこがチームの皆に愚痴らせている原因のようだった。
しかし、本当にしんどそうにも見えた。
だいたいにおいて、人がすることに関して、何か腑に落ちないことがある時は、それには何か事情があるのだろうと考える。
その事情はこちらが推測することはできても、本当のところは相手に聞いてみないとわからない。
私はずっとこのような考えだったが、これは「普通」であろうと私は思っていた。
ところが周りには違う人が多すぎる。
確かめもせず「決めつける」人があまりに多い。
ある日、Tさん不在の日、チームで話し合いの結果、信じられない作戦が出来上がった。
「皆の不満を思い知らせるために、Tさんと一切口を聞かない。徹底的に無視しよう。」
というものだった。
これには驚いた。
何故そこで「無視しよう」というような発想になるのか?
なんだか小学生のイジメ?
私は疑問が沸き、困惑した。
年齢的・体力的な限界は人それぞれであろうし、皆が皆に平等な作業量を課すほうが無謀、とするのが妥当ではないか。
だからこそ、誰かが無理な作業は、皆でカバーしあうのがチームというものではないか。
そのような意識を持って実践してきた私は、なんというか、自分のそれまでの仕事に対する姿勢を根底からひっくり返されたような、奇妙な感覚を覚えた。
皆が言うには、この「Tさん無視」作戦は、「平等の権利」というものからすると「当然の報い」らしかった。
しかし、そもそもTさんに
「一人だけ楽をしよう」という意図があり、そうしているのかどうか、誰も事実を確認したわけではないし、確認しようともしない。
なのに、なぜかそういうことに「決めつけられている」
うまく説明できないが、何か違う、と私には思えた。
釈然としなかった。
私は憤っているチームの皆に、持論を展開しつつ、説得を試みた。
「改善して欲しい点があるのなら、本人にきちんと伝えるべき。
無視などしても意味がない。
それどころか、こういうのは最も良くないやり方だ」
(もちろん、私は最年少であったので、丁寧な口調で話した)
そうすると、チームの大半から
「私たちはあの人と話をしたくない。
本人に言うべきと言うなら、あなたが言えば?」
という声が上がった。
なぜ話がこのような展開になるのか、私には良くわからなかったが、これがいわゆる、イソップの、
誰が猫の首に鈴を付けに行くか? という、あの「ネズミの相談」なのだな、ということだけはわかった。
私個人としては、Tさんに特に不満も要求もないのだが、「言いだしっぺが実行しろ」という理屈、それももっともだなと思えた。
「誰も猫の首に鈴を付けたがらない」状況で、何の解決にもならない愚痴を聞き続けるよりはマシかな、と思い
「ならば、私が鈴を付けましょう」ということになった。
→ 次 「ネズミの相談 2 」
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