物心ついた頃から、記憶にある感覚。
それは漠然と感じていた、正体のわからない「何か」だった。
回りの大人達、友達の言動に対して日常的に感じる、
「何かおかしい」
「何か違う」
でもそれが何なのか、何が違うのか、まったく自分でも説明がつかなかった。
私の言うこと、すること、ことごとく
頭ごなしに否定された感じだけが残る。
なぜそうなのか、理由がわからない
↓
わからないから親や回りに聞くと、なんだかわからないけどまた怒られる
↓
結局どうすれば良かったのかわからないまま
↓
困る
この繰り返しだった。
たくさんの
矛盾、
違和感、
不満、
理不尽さの感情が、
何の解決も処理もされないまま放置されているイメージだった。
それらがうず高く積み上げられた廃棄物のようなイメージ。
あまりにそれが日常すぎて、
「あぁ、またか…」と。
ほぼ諦めぎみになる。
いつの間にか
「何を言われても押し黙り、立ち尽くす子」
「何を考えているかわからない子」になっていった。
解決の手がかりがまったくなく、絶望的に思えていた。
うまく説明できないので、親にもこんな話をしたことはなかった。
次第に
世の中の「仕組み」そのものが
「理不尽」どころか「不条理」とさえ思えた。
自分の力ではどうしようもできない、
絶対不可能なことに対して「対処しろ」と言われているような感覚がしていた。
すべての仕組みが、自分にとって都合の悪いようにできている、と感じた。
それこそ「これは何かの陰謀か?」とすら思えた。
それはなぜだったのか。
なぜ疑問だったのか、
どこが疑問だったのか
なぜ不満だったのか、
どこが不満だったのか
なぜ理不尽と感じたのか。
何を不条理と感じたのか。
アスペルガーという言葉を知ってから約3年間
自分自身を掘り下げてきて、
少しずつであるが、わかってきた。
相手の言う理屈がわからない理由。
相手の気持ちが読めない理由。
相手の不快感がわからない理由。
つまり、こういうことだ。
行動の基本となる「発想」、
ものごとに対する「捉え方」「感じ方」が違うせいなのだ。
概念が、人と根本的に違うせいなのだ。
「人はこういう時に、こういうことを不快に感じるものらしい」
という情報を得ることができても、
私自身はそれを同じように不快と感じない。
だから、本当の意味で相手と共感しておらず、
だから、何度も同じ失敗を繰り返してしまうのだ。
では、いったい
感情の共有ができるものは、どんなものだろう?
暑い、寒い、痛いなど、身体に感じるものは当然わかる。
問題は心の内面だ。
同じ一つの事柄を、
「そう感じるか・感じないか」
「そう思うか・そう思えないか」
この違いは、とても大きい。
この違いで、共感できるかできないか、が決まるのだが、まずいことに、大多数の人は、相手も自分と同じように感じるという前提で会話を進めている。
そう感じるのが「常識」とされてしまっている。
だが、世の中には私のような変わり者の少数派が居る。
たとえば、
「不快」という感情は、私にもある。
ただ、
どんな場合に不快と感じるかが、私と人とはまったく違うようだ。
多数派の多くは、
相手からはっきりものを言われることを「不快」とする。
一方、
私にとっては、それは「不快」ではない。
常日頃、わからなくて困ることが多い私にとって、
はっきり言われることは、相手の気持ちを知るための材料であるので、
むしろ好ましいことである。
逆に、
はっきり言わず
遠まわしに言われたり、
うやむやにされることが、私には不快と感じる。
たとえそれが、いつも気にしている
「その話はこないだも聞いたよ」や
「空気読めよ」であっても、
私は
「確かにそれは事実だ」
「またやっちまったか」と受け止め、
相手に申し訳ない気持ちになりこそすれ、
相手に対し
「そんなこと言うなんてひどい」
「傷ついたわっ」などの感情は起きない。
ここが決定的に違う。
そろそろ核心に触れる。
結論として、
「不快」の共有ができていない裏には、以下のような仕組みが成り立っている。
相手に対して気配りをしろ、というのは
自分にとって「好ましいこと」を「してはいけないこと」とする概念を持て、ということになる。
そして、逆に
自分にとって「不快なこと」を「好ましいこと」とする概念を持て、ということになる。
なんという矛盾、理不尽な世界だろう。
これは非常に難しいことであるから、なかなか実行出来ないのも頷けるではないか。。
というより、
ほぼ無理に近いと思う。
誰にとっても、だ。
試しに、
同じことを多数派の人に要求してみればいい。
どのような反応をするか。
「あなたならできますか?」と。
答は明らかだろう。
だが、
現実に少数派のアスペルガーは、
日常で多数派からこのような矛盾を強いられている。
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