2012/03/25

地球に生まれてしまったエイリアン



アスペルガー症候群は、いってみればエイリアンである
 

ネット上でもよく言われているものだが、心療内科で診断を受けた時、医師からも同じ言葉が出た。
自己診断でほぼ確定と思ってはいたが、実際に医師の口からこの言葉が出されると、いっそう重みがあった。


 
私は40代後半になってアスペルガー症候群と判明した。

ネット歴は約10年だったので、
それまでに一度くらいはどこかで「発達障害」というものを文字として見たことがあったかもしれないが、まさか自分の抱える生きづらさの原因がこれだとは結びつかなかった。

いってみれば、自分の「ルーツ」「原点」を知らなかった。

知りようがなかった。

知りたくて知りたくて、仕方がなかった。

ただ、なんとなく、
薄々 わかっていたような気がする。





また子供の頃のエピソードになる。

これが根底にあったので、私は「アスペルガーはエイリアン」というのを知った時に「なるほど」と、納得したのだ。


 
私は小学4~5年生で、既に「異質なるもの」だった。
 
いつも「 世間」に対し「違和感」が付きまとい、そこここに矛盾があり、不条理があった。
親も「
世間」に属していた。
学校のクラスの友達も教師も皆、「
世間」だったが、私だけ世間に属していなかった。
 こんなにも周り中に対して「違う」「わからない」と感じるなんて、絶対ありえないだろう、といったものだった。  
同じ日本語という言語を話しているのだけれど、通じない。
まるで、文化も風習も違うどこか知らない場所に投げ込まれて居る、といった感覚だった。  
このような感覚が日常なので、いつからか、
ここは自分の場所ではない」
「たぶん、 私は生まれるところを間違えてここに居るのだろうな」 というような思いが定着していた。



テレビでたまたま

「UFOに連れ去られた!」 のようなスペシャル番組?を観たときも、別に「恐ろしい」だとか「嫌だ」というような気持にはならなかった。

どんなふうに感じていたかというと、

やっぱりそうか、
間違えて地球に送り込まれてしまった人たちをUFOは探して、本来生まれるべきであった場所に戻そうとしているのか、
じゃぁ私のところにもいつか、UFOが迎えに来るのかなぁ… 
 みたいな感じだった。


その続編で、「UFOに連れ去られた人が、数年後に戻ってきた!」みたいな番組を見た時の感想は、

この人は、「中身」を入れ替えられて戻ってきたのかなぁ
じゃぁもう、今は「中身」は本来の場所に戻って、「普通に」暮らしているのかなぁ…
であった。

同様に、戻ってきた人の
今の中身は、それまではどこか遠くの違う場所で、「何か違う」という違和感の中で暮らしていたが、やっと本来の場所:地球に戻ってこれたので、今後は普通に暮らせる、というわけだ。
この「入れ間違えられた中身」とは、私の中ではいわゆる「」みたいな捉え方だったように思う。


間違えられた中身は本来の場所に戻す」というのが、一番自然であり、一番望ましい形であると思えた。
だから「
普通に暮らせていない」私から見ると、本来の場所に戻れた彼らはとても羨ましい存在に思えたわけだ。

で、私も、この「知らない場所」にいる
自分の存在を、早く早くUFOに見つけて欲しいと願っていた。
それは、「焦がれる」ような思いであった。




 

私は、自分のルーツを探したが、見つからなかった。
  


40年間 UFOは現れなかったが、私のルーツを言い渡してくれる人 にやっと出会えた。
「あなたはアスペルガーです」
「あなたはエイリアンなのですよ」
診断を下してくれた 医師 が、その人だった。

 
今まで、ずいぶん辛い思いをされましたね と医師は言葉をかけてくれた。

その言葉は、「ここに居たんですね、ずいぶん探しましたよ
」 と聞こえた。

 
私は涙があふれてあふれて、言葉にならなかった。
 
はい、子供の頃からずっと待っていました。
やっと、見つけてくれたんですね。





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2012/03/24

聴覚過敏 と 脳の情報処理




今日はいつもの心療内科に行ってきた。

といっても定期的に通院しているわけではない。
私は特に服薬の必要がなく、何か困ったことや相談があれば受診すれば良い、と言われている。

今回は、以前から気になっていた「聴覚過敏」についての相談をした。



じつは、今月初めにある試験を受けに行った時のこと。
試験会場で待機している間、換気扇だかエアコンだかわからないが、ファンの回る音がえらく耳触りに感じた。
既に
私は嫌な予感がしていたのだが、案の定、試験官が試験前の注意事項を話し始めた時、私は試験官の話が聞こえなかった。

なぜあんなに小さな声で話すのだ?! と、激しい疑問を覚えた。


他の人は聞こえているのだろうか?と気になって回りを見たが、前のめりになり耳の後ろに手を当てて聞いているのは、
受験者22名の中で、私一人だけだった。
これはいくらなんでも、気のせいとは言えないだろう。


この出来事で思い当たったのが、以前書いていた
[ 土砂降り  ](2010年6月)の以下の部分だ。


あと、キャノピーに雨が打ちつけられる音で
人の話が良く聞こえないのが困るな。

激しい雨だと声が聞こえづらいだろうというのは予測できるはずなのに
声の小さい人はどんな時も小さい。
何度聞き返しても、やっぱり小さい。

聞こえないから聞き返しているのに、その小ささは無いだろう?と思う。
仕方がないから、近くまで走っていってもう一度聞く。

そうすると、さらに声が小さくなる(笑)
どっちにしろ聞こえない・・・

自分には聞こえてるからヨシと思うのだろうか。


 
激しい雨の日は、人の話が聞こえづらくて、ほとほと困った。

「土砂降り」を書いた当時、職場のホームセンターの張り出し屋根が折板(スチール製の板金)のキャノピーだった。
キャノピーには防音材など使われていないので、雨が降ると音がもろに直撃で、うるさくて最悪だったのだ。
業務連絡や指示がまったく聞こえず、3回も4回も聞き返すはめになるし、もういい加減にしろと相手を呆れさせてしまうこともあった。
難聴だろうか? と心配になって、職場の定期健診の時に「聴力検査」をしてもらったこともあるが、結果は別に異常ないと言われた。


困るのは雨の音だけではない。
車の騒音、工事現場の音、窓が開いていれば外からの雑音、などなど、数え上げればきりがない。
そういえば昔、学校でも授業中は他の生徒の私語で先生の話が聞こえなかった。
過去、人の話を聞く時に何か「邪魔」と感じる雑音があって聞こえづらかった、という記憶が次々と甦ってきた。


 
今までも「アスペルガーには聴覚過敏が多い」というのは何かで読んで知っていたが、私の聞こえづらさ聴覚過敏を結びつけて考えたことはなかった。

しかし、
もしやこれが「噂の」聴覚過敏か? と疑わざるを得なくなった。
いや、そもそも発達障害というのは「脳内の情報処理がうまくいっていない」ことを考え合わせれば、「聞こえない」のではなくて「聞き取れない」 = 「聞こえた情報を脳内で処理できていない」状態である可能性も、と考えた。

で、心療内科の先生に、これらの話をしてみた。


 
先生の見解としては、聴覚過敏」と聞こえた情報を処理できていない」の両方が考えられる、とのことだった。
まぁ、私の予想と一致していたわけだ。

さらに、聴覚過敏について、先生から以下のような説明がされた。

たとえば、「我が子の発表会」をビデオに録画して、あとで編集しようとそれを観てみるとする。
すると、録画中は気にならなかったのに、「我が子」の声よりも、隣のオヤジの咳払いやら後ろの父兄の笑い声やら、邪魔な雑音がやたら大音量でマイクに拾われていることに気づく。 

これはどういうことかというと、録画に夢中になっている人間(親)の脳には、
映したい対象である「我が子の声」だけを聴き分け、他の雑音を遮断する「フィルター機能」が働いている。 ビデオのマイクにはそのような「フィルター機能」がないので、そこら辺の音を何でもかんでも拾ってしまう。 

アルペルガーの「聴覚過敏脳」は
ビデオのマイクと同様に、雑音を遮断する機能が働いていないのでは?と考えられる。



先生の話を聞きながら、私が思い出したのが、以前YouTubeで観た、
 この中に登場する 精神科学専門・スナイダー教授の「サバンの研究」の話だ。

 
目覚めている時、私たちの脳にはひっきりなしに情報が飛び込んできます。
沢山の映像や音が一気に流れ込んできます。
しかし、脳が不要なものを整理してくれるので、私たちは編集された現実しか意識していません。
こうすることで、楽に生活ができるのです。

私たちは皆、情報攻めに遭っています。 
でも、脳はそれを分類して、単純化することができます。
だから、素早い反応ができるのです。 
ボールが飛んできた、車が向かってくる、警官だ、オートバイだ、自転車だ、子供だ。
私たちは、パッと止まることができるでしょう。
脳には、膨大な情報が飛び込んできますから、分類と言う作業がどうしても必要になってくるのです。

スナイダー教授は、サバンの脳はこの単純化の処理をしていない、と考えています。 
サバンは、しばしば周囲の世界に戸惑いますが、それは、編集していないままの現実を体験しているからだと言うのです。

サバンは、私たちには不可解とも思える才能を持っていますが、それは、彼らだけが脳のある特定の部位にアクセスできるからです。 
かすかな知覚情報が蓄積されている場所です。
サバンは、その情報を読み取ることができるのです。
言い換えれば、サバンの才能は、脳の発達障害の結果として生まれたものなのです。 
ですから、私たちの脳でも、どこかを遮断したり取り除いたりすれば、同じ情報を読み取れるようになるはずです。誰でも能力はあるんです。
ただ、それを読み取れないだけです。


 
ちょっと、うまく説明できないのだが、いくつかの「気になっていたが、バラバラでブツ切りだった漠然としたもの」が、またここで ひとつのもの としてつながった、という気がした。


2012/03/22

説明の構造化




文書化支援コンサルタント、開米瑞浩さんの「誠 Biz.ID:説明書を書く悩み解決相談室」シリーズというものがある。

などがあり、以前から読んでいたのだが、これらの中に出てくる、
知っている「用語」の認識違い気付きにくい
「認める」≠「期待する」であるというそのココロは?
情報の構造化  
プロには素人疑問が分からない
プロにとっては基礎知識でも素人には通じない 
構造の説明
指標の説明よりも省略しがち
などのキーワードが、私はどうも気になる、何やら無視できないもののようで、ずっと「なんだろう…」と考えていた。
もう少しでわかりそう、思い出せそうなのだが、惜しいところで引っ掛かっていて出てこない」みたいな、もやもやした感じだった。


そしてついに、これら「何か気になるもの」が「なんだったのか」わかったのが以下の記事だった。

今までモヤモヤしてはっきりとした形にならなかった思考、漠然していた「思い」は、頭の中で構造化ができていなかった状態、ということなのだろう。

1/3~3/3まである長文だが、3/3の部分を引用させていただく。

------------------------------


「道路の渡り方」の説明を徹底的に構造化してみよう

 では、具体的な例を挙げましょう。以下の場面は、先生が幼児に「道路の渡り方」を教えるシーンを想定しています。

先生の言葉

じゃあ今から先生がお手本みせますからね。
はい、ここが道路ね。それで、道路の向こうに行きたい、そう思ったら、
まず右見てね、車が来てたら、渡っちゃダメよ。
来てなかったら、次に左見るの。やっぱり車が来てたら渡っちゃダメ。
それからもう一度右見て、車が来てなかったら、
手を挙げて、渡りましょうね。いい? 分かった?

 これは「道路の渡り方」の「説明」であり「指示命令」になっています。普通は道路の渡り方のような簡単な技術を「スキル」とは言いませんが、実際にはこれも1つの「生活のスキル」であるのは間違いありません。
 こうしたスキルを教える場面では大抵、説明が必要です。
先生 
 道路はどうやって渡ればいいと思う?
 なんていう質問だけで「子供が自ら気付く」わけはありません。だから説明しなければいけませんが、このとき、理想を言えば情報を徹底的に構造化しておくべきです。
 参考までに、道路の渡り方を徹底的に構造化した例をお見せしましょう。



 
 思わず「何これ?」と衝撃を受けるかもしれませんが、単なる道路の渡り方でも、徹底的に構造化するとこうなります。さすがにこれを小学1年生に説 明するのは無理ですが、ここに出てきたフレームワークは、実は汎用的に使えるものなのです。業務マニュアルなどを書くときに、参考にしてみてください。


 まずは右端の「基本的特性」の欄を見てみましょう。すると「車は道路を走る」「車は高速を出す重い物体である」などなど、わざわざ言う必要もない ほど誰でも知っている常識的な情報が並んでいます。これらを、対象物が基本的に持っている性質ということで「基本的特性」と呼んであります。


 一方、その左にあるのは基本的特性を踏まえた「判断あるいは行動のルール」です。例えば「道路横断時は車にぶつかりやすく危険である」というのは、関連づいた2つの基本的特性から論理的に得られる判断です。
 
 「(A1)車が来ないことを確認する(必要がある)」というのも、関連づいた(C1)項から論理的に得られる判断です。その(A1)を具体的な行 動ルールにしたものが「(B1)渡る前に右・左・右の順に点検する」です。同様に判断(A2)を行動ルールにしたものが(B2)です。
 
 基本的特性と判断あるいは行動のルールがそれぞれ論理的に対応づいていることを確認してください。
 
 さらにその左、安全確保系概念という欄がありますが、これは「判断あるいは行動のルール」欄の情報を、「安全確保のための検討ポイント」という観点で分類したものです。
  • 安全確保の基本概念=「危険を防ぐために、安全課題を明らかにして、事前点検をしよう」
 
というのは、どんな分野であっても共通に出てくる「安全確保」のための基本的な思考パターンです。道路の渡り方もこのパターンで構造化できることが分かりますね。
 
 最後に左端の列は、問題解決系の概念を使って構造化したものです。「目的を達成するために、問題点を見つけ、課題を抽出して、解決策を考える」というのは、問題解決の典型的な思考パターンであり、道路の渡り方はこのパターンで構造化することも可能です。
 
 いかがでしょうか。「たかが道路の渡り方」です。ここまで構造化する意味があるのか? めんどくさくなるだけじゃないのか? と思われるかもしれ ません。実際、幼児にこれを教えるのは無理ですし、テーマが道路の渡り方だったら、何もここまでやらずとも(B1)(B2)だけで十分に役立つでしょう。


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道路の渡り方」だけで済ましてしまうと、何の重要性も見えてこない。
だが、ここに出てきたフレームワークは汎用的で、しかもアスペルガーの問題点が浮き彫りとなりがちな生活のスキル」「コミュニケーションスキル」の構造化としても応用できる、というわけである。
この構造化の話は軽く流してしまうにはもったいない。
大いに応用させていただこう。

もちろん「アスペルガーバージョン」として応用するわけだが、その際に注意すべき点は、次のようなことだ。

1. 
図の右端「基本的特性」の中に、自分が持っている「アスペルガー・発達障害の特性・傾向」と、「定型発達者の思考の特性・傾向」の違いも十分に認識し、盛り込んでおく必要がある。

なぜかと言うと、「わざわざ言う必要もない ほど誰でも知っている常識的な情報
」は、あくまでも「定型社会での常識的な情報」なので、我々の思うそれとは必ず温度差があり得るからだ。
定型発達者は、彼らの常識を
わざわざ言う必要もないとして、省略し言わない傾向がある。
だから、こちらは気づきにくいし、誤解や矛盾が多く付きまとう。
つまり、
「基本的特性」は、アスペルガーにわかりにくい部分があると思っておくほうが良い。

2. 
次の、「判断あるいは行動のルール」も、上記の
わかりにくい基本的特性を踏まえたものであるから、基本的特性から論理的に得られる判断」にも、留意する必要がある。 
この時の「論理的判断」も行動」も、定型社会で望ましいとされている判断あるいは行動」であるから、ここにも必ず温度差が発生し、我々は望ましくない的外れな判断・行動をしてしまう危険性がある。
 3. 
最後に、
ついに最大の難関である問題解決系の概念が登場した。
定型発達者と我々との間で、最も大きく立ちはだかるものが概念の違いだ。
このせいで、日常での問題では当然のように「典型的な思考パターン」が大きく食い違い、トラブルの原因だ。
定型発達者の思考パターンは「ある程度」わかってきた(つもりだ)が、どんな点を問題視するか何を重要視するかについては、やはり概念の違いでどうにもならないと限界を感じてしまう。

記事本文にあるとおり、
安全確保の基本概念=「危険を防ぐために、安全課題を明らかにして、事前点検をしよう」であるはずなのだが、彼らの「安全確保系概念」は、安全課題を明らかにせず、問題をうやむやにして済ますことに執着しているかのように見えて仕方がない。
そもそも、「意見を言うこと」を「危険な問題」と捉え、「相手にどう思われるか」ばかりを重要視する人を多く目にする。
これも
問題解決系の概念の持ちようで、それぞれなのだろうが、いつになっても私には釈然としない矛盾として残る。


1.  2. で出てくる課題の解決策を考える
私の問題解決の典型的な思考パターンは、こうだ。

とりあえず、定型社会に多い、我々にわかりづらい「基本的特性」をなんとかしないといけない。
これについては、こちらが少しでも疑問を感じた点は、わかったふりをせず率直に確認する、または予め詳しく率直に説明してもらうよう頼んでおく、これで対処するしかないように思える。

ただ、こちらの疑問点についてはこれでなんとか対処が可能だが、定型者が疑問に思う点があった場合、彼らがそれをこちらに率直に言ってくれるかどうかは、期待できない。
そういう場合こちらは彼らの疑問に気付くことができず、
自分の意見が通ったとしてやり過ごしてしまう可能性がある。
これに対処するには、出来るだけ、よろしいですか? わかっていただけましたか? などと常に相手に確認していくしか手がない。
多少面倒がられたとしても、誤解を生むよりはマシだ。

しかし、確認した際にもらう返事にも「本音と建て前」が存在するのを忘れてはならない。
果たして返事が本音なのかどうなのか、これもまたアスペルガーにとっては計り知れない。 
万が一、建て前での返事をされてしまうと、そうなるともう打つ手はない。
まったく対処のしようがないということになる。
   
アスペルガーが頑張って頑張って、出来得る限りの最善を尽くしても、ここまでだ。

3. の、「安全確保の基本概念」の矛盾については、機会あれば周囲の人の意見も聞いてみたい。
ただし、相手から「たかが道路の渡り方」と面倒がられないような説明を、また考えなければならない。
私の思考は、もっともっと情報の構造化が課題であることは間違いないようだ。


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2012/03/21

ネズミの相談 2



→ (前回 「 ネズミの相談 1 」 )


「誰も猫の首に鈴を付けたがらない」状況で、何の解決にもならない愚痴を聞き続けるよりはマシかな、と思い、
「ならば、私が鈴を付けましょう」 ということになった。
 
だいたいにおいて、私の思考は結構「単純」かつ「合理的」である。

・猫の存在を「嫌だなぁ」と愚痴っているだけでは解決に結びつかない。
・猫の首に鈴を付ける(話し合う)ことに成功すれば、解決の道がある。
・ならばそうしましませんか?と提案する。
・誰も自分の身が可愛いので鈴を付けに行きたがらない。
・私は別に猫を嫌いでないので「付けに行かない」理由がない。
・しかも「首に鈴を付ける行為」が猫に察知され反撃を食らうと決まっているわけではない。
それは話の持って行きようでどのようにもできると思える。
・ならば、私が行きましょう。

とても合理的、かつ論理的で、すっきりしていると思う。
しかも楽観的だ。

「合理主義」とはちょっと違う気がする。
「主義」などというような大それた「意思」があってそう考えたわけではなく、気づいたら自然とそのように思えるのだ。
あたかもそのようにプログラムされているかのように、自然とそう思った、という感じだった。

それと、ここが重要な点だが、私は何が何でも「自分がそれをしたい」というつもりはなかった。
あくまでもその状況の結果が「合理的」に良い方向で収まればそれで良いのだ。
だから、実行するのは誰でも構わないのだが、たまたま誰もしようとしないので、大抵、私が貧乏くじを引くはめになっていた。 (小学生の頃から)


そんなわけで、とりあえず私は折り入って話があるとTさんに持ちかけた。

チームの大半がTさんのゆっくりな動作に「わざとではないか?」と不満を持っていることを切り出し、私はなんとかしてこれを解決したい旨を告げた。
私にはそうは思えないが、何か理由があってのことか?
などを丁寧に話し返事を聞き出した。

よく話を聞いてみると、なんということもない。
Tさんはただ、作業の進め方に変更があった場合に、自分がどのように動くのが適切なのか、全体の流れから自分に求められている動作がどんなものなのか、それが良くわかっていないのだった。
だから自然と回りの様子を見ながらになり、まったりとした動作になっていたのだった。
職歴だけは長いので変なプライドもあり、また本人は口下手でもあり、皆と打ち解けて話すことも聞くこともしづらかったという。
なんとも可哀そうでもあり、拍子抜けもした。

この話をチームに持ち帰り、めでたく?誤解と疑惑は解けた。
今後は、作業についてわからない点、不明な点があればその都度確認し、解決していきましょうねということで皆の同意が得られた。
(仕事なのだから当然と言えば当然なのだが)


しかし、私には疑問が残った。

愚痴を言っていた人達はTさんを疑い「サボろうとしている」と決めつけ「無視しよう」という結論にまで達した。
根拠もなしに、Tさんに対して「サボり」の嫌疑をかけたのだ。
これは事実であるのに、愚痴っていた数名の中で、誰一人、この件に関してTさんに謝罪する人が居なかったのだった。
彼らはこのことに対し、罪悪感はないのだろうか。

私は釈然としなかった。

ここにも、定型社会によくありがちな、「ものごとを うやむやなままで済ます」が適用されていた。

もしも私なら「疑ってごめんね」と言わずにいられないところだ。
しかし、どうやら
「何も問題なかったじゃない? だから何も言う必要ないじゃない?」 とされてしまっているようだった。
確かに誰一人、面と向かって本人に言わなかった。
だから、「何も問題なかった」というのだろうか。
疑惑の真相を突き止めようとせず「シカト作戦」にまで発展していたのだから、私に言わせれば、問題だらけだ。

定型社会にはこういった「釈然としない」ことがとても多い。


今考えると、このTさんも回りの状況を「よく読めない」タイプで、もしかすると発達障害の要素を持ち「困っていた」人であった可能性もある。
私とて、作業の流れを「よく読めていない」部分はあったはずだ。
しかし年齢が若いこともあり、先輩がこまめに指示を出してくれ、そのおかげでうまく動けていたのではないかと思う。


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2012/03/20

アスペルガーと診断されるまで 3






とりあえず大きな病院で、という、まるでゆとり世代の就活のような情けない動機で行った大学病院での診察は、残念ながら不発(?)に終わった。

なんだかなぁ。 という感じだった。

まぁ、発達障害というものに関して、私自身「初心者」だったのだから仕方あるまい。
次はちゃんと専門医師が居る病院を調べてから受診すれば良い。


今ならこのリンクを難なくたどることができるが、当時は考えなければならない問題が山積みで、結構気持ちがいっぱいいっぱいだったのだろう。
地元で「発達障害の専門医」が居る病院または医院を調べたいが、どこにどうやって問い合わせればいいものやら、 途方に暮れたのを覚えている。

県の機関からたどり、我が地元にも発達障害者支援の施設があることをを知り、そこへ問い合わせることを思いついたのは、しばらく経過した後だと思う。

しかし、「アスペルガー」の文字で検索し、手当たり次第に様々な サイトやブログで情報を得ることを日課としてしまっていた私は、アスペルガー症候群にほぼ間違いないだろう、と既に「自己診断」を下していた。

当時、職場の同僚にこの「自己診断」の話を打ち明けた。
その時も、(予想通りであるが)同僚から返ってきた言葉は、
「考えすぎじゃない?」
「言い訳にしたいだけじゃない?」であった。

決して、何か病名が欲しかったわけではない。
「できないこと」を「何かのせい」にしたかったわけでもない。
何がなんでもアスペルガーになりたかったわけでもない。

自身がどんなに打ち消そうが、否定しようが、目の前に事実としてある「アスペルガーの特性」は、確かに私自身にあり、それらが「私がアスペルガーである」ことを物語っていたので、逃げようがなかった。
その特性がどんなものか、特性ゆえに出てくる「周囲を困らせ自身も困る様々なこと」を正しく認識すればするほど、自己診断は確定的になっていた。

また、「周囲が診察を勧めるが、本人がなかなか認めようとせず、診察に行きたがらない」等の相談の記事も読んだ。
この手の記事を読む度、「現実逃避」の文字が頭をよぎった。

自分は、現実から逃避してはならないし、していない。
現実をきちんと受け止め、受け入れることができるし、その覚悟ができていると考えた。
自己診断は、「できないこと・わからないこと」から逃避したいがためでなく、 ならばどうするか、その対策を講じるためであった。
「自覚」と「認識」のためであった。

どちらにしろ、人に告知するにも未診断ではなんの説得力もなかった。
職場の上司に対しても、同様の理由で相談することもできなかった。
すべては、診断を受けないと始まらない。

早急に専門医に診断を仰ごうと焦った。



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日々の生活で感じる 矛盾・違和感・概念の違い をどう捉えれば良いか、
当事者の人に、支援者の人に一緒に考えて欲しいと思います。
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2012/03/19

「過去の日記」を時系列で表示




過去に書いた日記・覚書のようなものが、あちこち、いろいろなところから見つかる。

Googleノートブックやドキュメントに書いてあったり、メールの下書きやメモに保管してあったり。

これもアスペルガーならではの特性とは思いたくないが、
「とりあえず保存しておこう」としておいたところが、上出来といえば上出来かもしれない。

それらが見つかる都度このブログに投稿するので、時系列がバラバラになってしまっていた。

どうしようもないなと最初からと諦めていたが、ここにきて、投稿日時を編集できることがわかった。(今更!)


なぜもっと早く気づかない…


本当に今更ではあるが、今までの投稿分の「公開日時」をすべて時系列で表示させた。

ブログランキングではちょっとおかしな具合になるかもしれないが、悪意あっての改ざんではないので、どうかご容赦願いたい。



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