2012/02/26

考察 2 「フィルター」




ちょっと前に、知り合いが
「歯に衣着せずに言う 」友人について語る際、
「あー、あいつはフィルターかけずに言うからなぁ」
というような話をしていた。

それを聞いて、私は考えずにいられなかった。

あぁ、その人も、多分アスペルガー傾向にある人なんだろうな、と。
そしてやはり、回りを困らせているのだろうか、と。





ということで、「フィルター」の話を。




定型発達者の多くは、「相手に対する気配り」と称して、話す時にも聞くときにも常に「フィルター」をかける


このフィルターが、アスペルガーを苦しめる。


話す」際には、はっきり言わず遠まわしに、婉曲的に、いわゆる「オブラート」に包んで、というものだ。
相手に「察する」ことを要求する

聞く」際には、常に相手の言葉には「裏」がある、という前提で、「別の意味」を読み取ろうとする。
オブラートに包まれた言葉から、それを察しようとする。


これがフィルターをかけていることになるのだが、定型者本人は無意識にやっていることであり、当然このフィルターは万人に共通で使用されていると思い込んでいるので、これがアスペルガーを困らせている事実に気づかない。


その結果、どうなるか。

定型者の発言をアスペルガーが聞く時、どうなっているかというと、

フィルターなんぞ持たない、そもそもフィルターなどという概念がないアスペルガーは、遠まわしに言われてもその本意に気づくはずもなく、何のフィルターも通さずそのまま言葉通り受け取るか、または意味がわからず「???」のまま。

お世辞や皮肉、社交辞令などがアスペルガーに通用しないのは、こういう仕組みだ。



また、アスペルガーが話す時はどうか。

アスペルガーにはフィルターというもの自体が存在しないので、聞く人はそのままストレートに受け取れば良いものを、定型発達者は、その習性からわざわざフィルターをかけて聞いてしまう。
そして「裏」も「表」もないアスペルガーの言葉から、ありもしない「別の意味」まで無理やり曲げて読み取ろうとし、読み取ったつもりになっている。

定型発達者が読み取ったつもりのものは、じつは大いに的外れであり、単に妄想に過ぎないものなのだが、これまた定型発達者にとっては「そうに決まっている」と思いたいものらしい。
まるで「そうでなければならない」と決めつけてしまいたいものであるようだ。

それもそのはず。
こうした会話のやり取りにも、アスペルガーの概念にない「暗黙の了解」が存在する。
つまりここには、
話し手・聞き手双方が「読み取られることを前提とした会話」を行っている、という前提があり、また、そういう前提で成り立っている定型社会があるのだから。
定型発達者がそう決めつけてしまうのも無理もないとも言える。

このような前提などまるで関知しない純粋なアスペルガーは哀れなものだ。
あらぬ方向に誤解され、勘違いされ、関わらずにいたい存在として排除されていくことになる。

ひどい場合は、自分が誤解されていること自体、排除されていること自体に気づかぬまま過ごすことになる。
 


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2012/02/25

ネズミの相談 1



26歳頃の出来事。



地元の病院で職員を募集している、という情報を入手し、面接を受け、臨時職員として採用された。

選んだ理由は:
・真面目に勤務していれば将来正職員へ途用のチャンスあり。
・バツイチ女が一人で子育てするには、安定した収入が第一。

仕事内容は、入院患者用食器を洗浄機を使用して洗浄・消毒する、という単純作業の繰り返しで、体力勝負な仕事だった。

しかし、チーム内で一番年齢が若く、元々体格が良く、腕力にも自信ある自分にとっては、作業はそれほど苦痛ではなかった。
汗だくになりながら精一杯働き、お腹も減るのでモリモリご飯を食べ、疲れて、夜はぐっすり良く眠った。


少し職場に慣れてくると「女の職場」の現実が見えてきた。
その場に居ない「特定の人」への文句・愚痴・陰口が日常的に行われていることに気づいた。
私は当惑し、違和感を覚えた。




私には、昔から持論があった。


誰かに文句がある、あるいは改善して欲しい点があるのなら、本人に直に言うべき。
陰で愚痴っても何の解決にもならない。
本人に言わないのであれば、それはその人が「言わないこと」を選択したわけで、選択した以上、いっそ誰にも言うべきでない

というものだ。

小学生の頃から私にはこのような思考が漠然と定着していた。
(もちろん小学生の思考だから、「改善」だの「選択」だのという小難しい言葉は用いない)
だから私は愚痴る人々を見ながら不思議でならなかったし、愚痴が飛び交う中に身を置くことが不本意であり、苦痛であった。


私は、しばらく噂の当人(Tさん)を注意深く観察した。


観察して気づいたが、確かに40代女性のTさんは少しばかり動作がゆっくりだった。

それは、見ようによっては
・わざとゆっくりやっている?
・態度が真剣さに欠ける?
そのようにも見えないこともない、と思えた。

そこがチームの皆に愚痴らせている原因のようだった。
しかし、本当にしんどそうにも見えた。


だいたいにおいて、人がすることに関して、何か腑に落ちないことがある時は、それには何か事情があるのだろうと考える。
その事情はこちらが推測することはできても、本当のところは相手に聞いてみないとわからない。
私はずっとこのような考えだったが、これは「普通」であろうと私は思っていた。

ところが周りには違う人が多すぎる。
確かめもせず「決めつける」人があまりに多い。



ある日、Tさん不在の日、チームで話し合いの結果、信じられない作戦が出来上がった。

「皆の不満を思い知らせるために、Tさんと一切口を聞かない。徹底的に無視しよう。」
というものだった。


これには驚いた。

何故そこで「無視しよう」というような発想になるのか? 
なんだか小学生のイジメ?


私は疑問が沸き、困惑した。


年齢的・体力的な限界は人それぞれであろうし、皆が皆に平等な作業量を課すほうが無謀、とするのが妥当ではないか。
だからこそ、誰かが無理な作業は、皆でカバーしあうのがチームというものではないか。

そのような意識を持って実践してきた私は、なんというか、自分のそれまでの仕事に対する姿勢を根底からひっくり返されたような、奇妙な感覚を覚えた。


皆が言うには、この「Tさん無視」作戦は、「平等の権利」というものからすると「当然の報い」らしかった。

しかし、そもそもTさんに
「一人だけ楽をしよう」という意図があり、そうしているのかどうか、誰も事実を確認したわけではないし、確認しようともしない。
なのに、なぜかそういうことに「決めつけられている」

うまく説明できないが、何か違う、と私には思えた。
釈然としなかった。


私は憤っているチームの皆に、持論を展開しつつ、説得を試みた。

「改善して欲しい点があるのなら、本人にきちんと伝えるべき。
無視などしても意味がない。
それどころか、こういうのは最も良くないやり方だ」

(もちろん、私は最年少であったので、丁寧な口調で話した)

そうすると、チームの大半から

「私たちはあの人と話をしたくない。
本人に言うべきと言うなら、あなたが言えば?」

という声が上がった。


なぜ話がこのような展開になるのか、私には良くわからなかったが、これがいわゆる、イソップの、
誰が猫の首に鈴を付けに行くか? という、あの「ネズミの相談」なのだな、ということだけはわかった。

私個人としては、Tさんに特に不満も要求もないのだが、「言いだしっぺが実行しろ」という理屈、それももっともだなと思えた。


「誰も猫の首に鈴を付けたがらない」状況で、何の解決にもならない愚痴を聞き続けるよりはマシかな、と思い

「ならば、私が鈴を付けましょう」ということになった。



→ 次 「ネズミの相談 2

考察 1 「不快」の共感



物心ついた頃から、記憶にある感覚。

それは漠然と感じていた、正体のわからない「何か」だった。

回りの大人達、友達の言動に対して日常的に感じる、
何かおかしい
何か違う


でもそれが何なのか、何が違うのか、まったく自分でも説明がつかなかった。

私の言うこと、すること、ことごとく
頭ごなしに否定された感じだけが残る。

なぜそうなのか、理由がわからない
 ↓
わからないから親や回りに聞くと、なんだかわからないけどまた怒られる
 ↓
結局どうすれば良かったのかわからないまま
 ↓
困る

この繰り返しだった。

たくさんの
矛盾、
違和感、
不満、
理不尽さの感情が、
何の解決も処理もされないまま放置されているイメージだった。

それらがうず高く積み上げられた廃棄物のようなイメージ。

あまりにそれが日常すぎて、
「あぁ、またか…」と。
ほぼ諦めぎみになる。

いつの間にか
何を言われても押し黙り、立ち尽くす子
何を考えているかわからない子」になっていった。
解決の手がかりがまったくなく、絶望的に思えていた。

うまく説明できないので、親にもこんな話をしたことはなかった。



次第に
世の中の「仕組み」そのものが
理不尽」どころか「不条理」とさえ思えた。

自分の力ではどうしようもできない、
絶対不可能なことに対して「対処しろ」と言われているような感覚がしていた。

すべての仕組みが、自分にとって都合の悪いようにできている、と感じた。
それこそ「これは何かの陰謀か?」とすら思えた。

それはなぜだったのか。



なぜ疑問だったのか、

どこが疑問だったのか

なぜ不満だったのか、

どこが不満だったのか

なぜ理不尽と感じたのか。

何を不条理と感じたのか。


アスペルガーという言葉を知ってから約3年間
自分自身を掘り下げてきて、
少しずつであるが、わかってきた。



相手の言う理屈がわからない理由。
相手の気持ちが読めない理由。
相手の不快感がわからない理由。




つまり、こういうことだ。

行動の基本となる「発想」、
ものごとに対する「捉え方」「感じ方」が違うせいなのだ。
概念が、人と根本的に違うせいなのだ。



「人はこういう時に、こういうことを不快に感じるものらしい」
という情報を得ることができても、
私自身はそれを同じように不快と感じない。

だから、本当の意味で相手と共感しておらず、
だから、何度も同じ失敗を繰り返してしまうのだ。




では、いったい
感情の共有ができるものは、どんなものだろう?


暑い、寒い、痛いなど、身体に感じるものは当然わかる。



問題は心の内面だ。



同じ一つの事柄を、
「そう感じるか・感じないか」
「そう思うか・そう思えないか」
この違いは、とても大きい。

この違いで、共感できるかできないか、が決まるのだが、まずいことに、大多数の人は、相手も自分と同じように感じるという前提で会話を進めている。
そう感じるのが「常識」とされてしまっている。


だが、世の中には私のような変わり者の少数派が居る。


たとえば、

「不快」という感情は、私にもある。
ただ、
どんな場合に不快と感じるかが、私と人とはまったく違うようだ。


多数派の多くは、
相手からはっきりものを言われることを「不快」とする。

一方、
私にとっては、それは「不快」ではない。

常日頃、わからなくて困ることが多い私にとって、
はっきり言われることは、相手の気持ちを知るための材料であるので、
むしろ好ましいことである。

逆に、
はっきり言わず
遠まわしに言われたり、
うやむやにされることが、私には不快と感じる


たとえそれが、いつも気にしている
「その話はこないだも聞いたよ」や
「空気読めよ」であっても、
私は
「確かにそれは事実だ」
「またやっちまったか」と受け止め、
相手に申し訳ない気持ちになりこそすれ、
相手に対し
「そんなこと言うなんてひどい」
「傷ついたわっ」などの感情は起きない。

ここが決定的に違う。




そろそろ核心に触れる。


結論として、
「不快」の共有ができていない裏には、以下のような仕組みが成り立っている。 


相手に対して気配りをしろ、というのは
自分にとって「好ましいこと」を「してはいけないこと」とする概念を持て、ということになる。

そして、逆に
自分にとって「不快なこと」を「好ましいこと」とする概念を持て、ということになる。

なんという矛盾、理不尽な世界だろう。

これは非常に難しいことであるから、なかなか実行出来ないのも頷けるではないか。。
というより、
ほぼ無理に近いと思う。

誰にとっても、だ。


試しに、
同じことを多数派の人に要求してみればいい。
どのような反応をするか。

「あなたならできますか?」と。

答は明らかだろう。 



だが、
現実に少数派のアスペルガーは、
日常で多数派からこのような矛盾を強いられている。

アスペルガーと診断されるまで 2






毎日の業務が不安だった。
何でもいいから、何かヒントが欲しかった。
自宅で、暇さえあればネットであれこれググった。

空気が読めない」というキーワードで
偶然「アスペルガー症候群」というものにたどり着く。

初めて見る文字だった。 

書かれてある「アスペルガーの特性」が
どれもこれも自分に当てはまりすぎで、驚く。

さらにググり続けた。 

いくつかのアスペルガー当事者のブログを読み漁り、さらに驚く。

「これは、なんという自分!」

衝撃を受けた。
まったく身動きができなくなり、 固まった。
体は固まっていたが、延々と記憶を辿った。

3日間仕事が手に付かず、考え続けた。

■物事に対する解釈・概念・理念など、人と大きくズレていることは、子供の頃から感じていた。

■いろんなことを「わかったつもり」「できるつもり」でやってきたけれど、実はまったくわかっていなかったのだと気づいた。

■職場での失敗と、プライベートでの失敗、すべての原因がだんだんと一つにつながってくる。

■自分はアスペルガーか、そうでなければ学習障害か、ともかく「発達障害を疑うべき」。
これは多分間違いない、と思った。

これは衝撃的な事実だった。


悶々としていてもしようがないので、とりあえず地元で一番権威のありそうな医学部付属病院の精神科に予約を入れた。
(専門医が居るかどうか良く調べもせず)

この日に書いた日記が、

1週間後に受診した。 

1時間程度の問診を受けたが、
途中、私には何かしら違和感があった。 

担当医師は、私がネットで見た「アスペルガー診断チェックサイト」でありそうな「型どおり」の質問をいくつかしながら、手元のチェックシート?のようなものに「チェックマーク」 を書き込んでいた。

・・・え? それって、もしかしてマニュアル? と思った。

それから「生い立ち」から現在までの出来事・経歴を質問された。
ひとつひとつに答えながら、私は質問の内容が、的外れな感じ を受けた。
医師が全然私の目線に下りてきてくれていない感覚がした。 

それは、たぶん「マニュアル化」された質問のされ方が原因だろうと思われた。

診察後、医師から
「お話を聞く限りでは、発達障害のようには見受けられません」と言われた。

なんとなくだが、それは予想どおりな気がした。 

根拠を尋ねると、
「話すとき、ちゃんとこちらに目線を合わせていましたよね?
発達障害の人は、相手に目線を合わせられないんですよ
というものだった。 

ポイントはそこですか?! と突っ込みたかった。
そこまでマニュアルどおりですか。 

患者は、「人と目線を合わせられない」ことを悩んで受診したのではない。
相手の目をちゃんと見て話すのは、客商売のイロハではないか。

現在までの通算7年間の営業・接客業という職歴もちゃんと話したにもにかかわらず、まったく考慮されていないようだった。

医師の手元の発達障害診断マニュアルには、
「相手の目を見て話す習慣」は、職業により身につくことはありえない、とでも載っているのだろうか。 

目の前の患者が具体的にどんなことで困っているのかを、この医師はまるで聞いてこないし、探ろうともしていない。

・・・私が上司だったら、この部下は減俸だな。

こんな風に、自分を「ひとりの患者」として客観視し、医師の「診断状況」を分析してしまっている自分に気づくと、ちょっと滑稽だった。

これではどっちが専門家かわからないな、と思った。


自宅に戻り、考えた。

そもそも私は「病院の規模が大きい」という理由だけで大学附属病院に行ったのであった。
そこの精神科の医師が発達障害に詳しいとは限らないのだし、専門医かどうかを事前に確認したわけでもない。 

完全に、私の病院選択ミスだ、と思った。
次の大学病院の診察予約はキャンセルした。


悩むのは無駄に思えたが、じっくり考える意味はある。 


まだ疑問が残っている。

過去経験してきた仕事において、自分はそれなりに結果も出した(つもりだ)し、評価も受けてきた。(つもり)

あれは何だったのだろう?
あの達成感は勘違いか? 
だだの思い込みだったのだろうか?

何故今、この年齢になって、この職場になって、
「できないこと」「わからないこと」が、こうも次々と出てくるのだろう?
これを解明しなければならないと思った。


この頃はまだ、
アスペルガー症候群が自閉症スペクトラムに分類されている理由 について考えるに至らなかった。

アスペルガーと診断されるまで 1




診断を受けるに至った経緯を書いてみる。




パートで務めていた職場で1年が経とうとしていた。

シングルタスク (2008年02月25日の日記) を書いてから少し経っていた)


職場は、ホームセンターの店員。
コンビニのバイトすらもしたことのない私にとって、初めての(店内での)接客業であった。
(外回りの営業経験はあった)



それまでの仕事で経験したことのない日常的な忙しさ、あわただしさがあった。
加えて従業員の少なさ、シフト勤務での相互連絡や報告のしづらさ。
様々な業務が次々と割り込んでくる。
かといって自分の予定の作業もある。
あちこちに目を配り、どれを優先させるか直観で判断し、しかも自分の担当売場の作業もこなしていく。
そういう臨機応変な動きが求められた。


徐々に、上司・同僚との業務上の報告・連絡・相談に食い違いを感じ始める。

自分は(社会人としての)ホウレンソウなどとっくに身に付けている、と信じて疑わなかったので、食い違いは「ありえない」ことだった。

どころが、明らかに何かが食い違っているようだった。


いったい何が起きているのかが把握できなかった。
何かわからないが、「キツネにつままれた」というような感覚だった


おかしい。意思の疎通ができていないようだ。


失敗は、上司からの指示を受ける際、どうやら私の判断で勘違い・受け取り違いしてしまったようだった。
だんだんと「気のせい」では済まなくなる。

不安になり、上司に悩みを相談する。

上司は言った。

「普通の常識で行動していれば大丈夫ですよ。」


ありがたいことに、私には、

 ・一生懸命さ
 ・真面目さ
 ・職務を全うしようとする忠実さ
 ・裏表の無い正直さ
 ・素直に相談してくる謙虚な姿勢 
   があるらしく、上司にはそれは伝わっているらしかった。


「あなたのこの部分は評価している」と、上司は言った。

「それがあれば大丈夫、それが一番大事ですよ」としながらも

「ただ、不器用というか、要領が良くないんですよね?
まだやっと勤続1年だし、だんだんできるようになりますよ。一緒に頑張りましょう」
その場は励まされた形で終わった。



ところが、
一生懸命であれば何でも許されるというものでもない。
実際に業務に求められる「結果」が伴っていない。
結果から言うと、接客に追われまくり、その日の作業がまったく予定通りに終わらない。

普段から私の行動を見てくれていそうな先輩にも相談してみた。
今後の対策が目的であり、決して単なる愚痴ではない、と前置きをしたうえで、率直な指摘を頼んだ。


先輩からの指摘をまとめると、次のようなことだった。


「臨機応変に」やっているつもりのようだが、結果的にその時重要ではないことを選んでしまっている。

(これは、私にとっては重要と思えることが、人から見るとさほど重要ではない、ということになる。)


複数の作業の「優先順位」をうまく判断できず、右往左往している時が多いように見える。

これはいったいどういうことか、よく考えてみた。

自分で判断した優先順位で仕事をした結果、上司から「それは優先順位が違う」と言われたが、そうは言われても自分にはそれがつじつまが合わない。

だからその後、自分で優先順位を決めようとすると、つじつまが合わないため、迷いが出て決められなくなっている、という状況なのだろう。


そして、暗黙の了解を理解していないのを痛感する。



さらにしばらくして、プライベートの友人関係で、トラブルを起こした。

・「相手の言外の気持ちをくみ取れない」

・「空気を読めていない」 
が原因であった。

この時に書いた日記が、

その原因を追究していて、浮き彫りとなったのが、以下のことだった。

 ・「人から見ると、些細なことにこだわりすぎ」
(どうでもいいようなことに固執してしまうらしい)

 ・「自他の区別がなく、自分の価値判断を人に強要しまう」
  (相手を自分の身内のように感じてしまい、良かれと思う気持ちから要らぬお節介をしてしまう)


アスペルガー関連のサイトで調べてみると、この2つは、アスペルガーの傾向として、大抵取り上げられているものだ。

その中でも、「自他の区別がなく、人と自分とを対等に扱う」は、多数派に対しては特にまずいものであるようだ。
「親しき仲にも礼儀あり」という、日本人の最も重んじる「作法」をまったく無視するものらしい。




この時点ではまだ、
プライベートで起きる問題と
業務上起きる問題が、同じ原因でつながっていることに気づいていない。